心理学では「反事実的思考」とするが、少し意味合いが異なるように思う。シンプルに「たられば」でいい。現実になかったことを妄想し「ああだったら」「こうだったら」と後悔したり嘆いたり、あるいは、自己の正当化をはかる。
他者に対するリスペクトなき「たられば」ほど醜いものはない。
例えば武士はそうした「たられば」を嫌う。
武士には「いさぎよさ」が求められた。結果がすべての命の張り合い、されど結果ばかりではない「美意識」を尊んだ。勝っても負けても、いさぎよく。
「たられば、ですけれども、僕は好きじゃないですけど、たらればで僕より上になっていた場合は、もしかしたら自分のリミットをさらに超えたものをやれた、かもしれません。それは、わかりません」
羽生結弦のこの言葉、まさにその「美意識」がある。
2018平壌五輪の会見「ネイサン・チェンがSPを失敗しなければ」という「たられば」を記者から受けての言葉だった。また羽生結弦はその前置きとして「ネイサン・チェンがノーミスするとかしないとか関係なく、自分ができることをやろうと思っていました」とした。
羽生結弦の美意識は常に自己闘争の中にある。誰がどうとかは関係ない。ああしたら、こうしたらの後悔も公言しない。
武士は美意識を尊ぶ、かつリアリストでもある。無常の現実と対峙する。まさに羽生結弦の、それだ。
どうしても言っておきたく
前後編で綴りました。「たられば」それは
とても恐ろしいもの。羽生結弦が「たられば」を
好まないのは
それを知っているから。醜い「たられば」は不要
偉大なアスリートたちもみな
それを知っていた。なのに
いまだ公言する人がある
残念でなりません。
ネット上の反応
日野さんお怒りのご様子で
「いまだ公言する人がある残念でなりません」
日野さんは柵が少ないからこういうこと書けるんだろうな
100パーセント同意します。
ましてや自分に起こった事に たらればを付けて上方修正し、他人を巻き込み公の場で語るなど、人生やそのおかげで自身を有名にした競技に対してもプライドも何も無い
日野さま、いつもスカッとする記事をありがとうございます。
真剣勝負の場所でのたらればは尚更醜いですよね。
私は北京の羽生くんの武士のような潔さに惚れ惚れし沼に落ちました。「一生懸命頑張りました」と潤んだ瞳で真っ直ぐ前を見つめていた顔は忘れません。
たらればは、美しくない。
アスリートとしてはもとより、人間の生き方として美しくない。
それです、正に。
美しく生きる人に、人は惹かれますね
何のこと?と思って調べたらこういう事なのね
スポーツにタラレバはいりませんね‼️
練習ではもっと出来てたのに‥
あのジャンプが成功してたら…
今現在プロになったのに今でも言ってます‼️
スポーツは結果がすべてです。
ゆづ君はタラレバ大嫌い‼️
平昌の事を今だにタラレバ言って何になるの⁉️
恥ずかしいですね
そだねー 日野さん 完全に同意します
何度も何度も頷きながら読みました
同じアスリートでこうも違うのか…と残念な気持ちにもなります💦
羽生さんのスケーターとしての美しさ、ビジュアルの美しさもこの上ないのに、彼の本当に美しい生き様に心を鷲掴みにされる日々が幸せだなと
コメント
完璧な演技をしたら勝てるもタラレバ